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人生朝露

人生朝露

紀元前の進化論。

ちょっと調べてみると、「なぜ、日本人が進化論を信じられるのか?」という質問に対して、江戸時代に鎌田柳泓という人が進化論に似た思想を展開しているとあります。

参照:
ダーウィンより40年も前に進化論を唱えた心学者・鎌田柳泓
http://www.ehle.ac.jp/meiseisha/kikou/ryuuou-sinkaron/ryuuou-sinkaron.html

どうやら、1818年の段階で日本人が進化論近似の思想を持ちえたという話なんですが、当ブログでは、ネルーが書いた手紙ある「ツォン・ズ(Tson tse)」という紀元前の中国の哲学者が「進化論」に似たことを書いている、という記述に注目いたします。

参照: 当ブログ 進化論とアジア
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200903130000

荘子。 
「ツォン・ズ(Tson tse)」とは、「荘子(Zhuangzi)」のことであると思うのですが、Wikipediaの英語版で「荘子」にもあります。

> Evolution
> In Chapter 18, Zhuangzi also mentions life forms have an innate ability or power (機) to transform and adapt to their surroundings. While his ideas don't give any solid proof or mechanism of change such as Alfred Wallace and Charles Darwin, his idea about the transformation of life from simple to more complex forms is along the same line of thought. Zhuangzi further mentioned that humans are also subject to this process as humans are a part of nature.

参照:
Wikipedia Zhuangzi
http://en.wikipedia.org/wiki/Zhuangzi
Wikipedia 荘子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90

WikipdeiaにあるChapter18というのは、「荘子」の外篇、「至楽第十八」であります。
この最後の方に、列子(この人も紀元前の思想家)が、百年も経とうかというしゃれこうべを見つけて、そのしゃれこうべに向かって「生と死」について問いかけるという場面がありまして、そのしゃれこうべが、こう言うわけです(常用漢字に入っているはずがない、あまりにも難解な生物名が続きますのでカタカナ表記にします)。

「種に『幾』有り。
水を得ればすなわちケイ(水草のこと)と為(な)り、
水土の際を得れば、すなわちアヒン(水苔のこと)の衣と為り、
陵屯に生ずれば、則ちリョウセキ(オオバコのこと)と為る。
リョウセキ(オオバコ)は鬱棲(フンの溜まり場のこと)を得れば、すなわち烏足(雑草の一種)と為り、其の葉は胡蝶と為る。
胡蝶はしばらくして化して虫と為り、竃下に生ず。
其の状 脱(脱皮した)の若くにして、其の名をクテツ(コオロギ)と為す。
クテツ(コオロギ)は千日にして鳥と為り、
其の名をカンヨコツ(カササギ)と為す。
カンヨコツ(カササギ)の沫(唾液)は、シミ(虫の一種)と為り、
シミは、ショクケイ(カツオムシのこと)と為る。
イロ(虫の一種)は、ショクケイ(カツオムシ)より生じ、コウキョウ(コガネムシのこと)は、キュウユウ(キクイムシのこと)より生じ、ボウゼイ(ブヨのこと)は、フカン(ウリバエ)より生ず。
ヨウケイ(草の一種)は、筍せざる久竹に比して(筍ができない竹と交配して)青寧(竹根虫)を生ず。
青寧(竹根虫)は、程(豹のこと)を生じ、程(豹)は馬を生じ、馬は人を生ず。」

・・・と、しゃれこうべのデタラメな話が続いたわけです。
最終的には馬から人になると。そして、

「人は又た反りて機に入る。万物は皆機より出でて、機に入る」と結ばれています。(以上学習研究社 中国の古典6 「荘子 下」より抜粋)

参照: 中国哲学書電子化計画 『荘子』中英対照版
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=2712&if=gb&en=on

デタラメはデタラメなんですが、

「種に『幾』有り」から、
→水中では水草
→水際では水苔
→丘の上ではオオバコ

という環境の変化による生態の相違や、植物と昆虫と動物のあらゆる生き物が時間の経過と共に別の生き物になってしまうという文脈は、かなり乱暴だけど雰囲気はありますな。虫同士の種類の変化は、アリジゴクがウスバカゲロウの幼虫であったりする「変態」に近いイメージかと。「幾」または「機」の働きであるというのは、メルモちゃんが赤いキャンディー一個を舐めて受精卵まで戻ってから、青いキャンディーの欠片で他の哺乳類になる程度の進化論の断片とも読めます。後半のヒョウ→ウマ→ヒトという変化も哺乳類つながりだし。 そういや、パラケルススのホムンクルスは人間の体液をウマの胎内に入れるんじゃなかったっけ?「機」を遺伝子ととらえると、無理がありそうだけども、進化論の雰囲気はあります。

この「至楽篇」には、死によって転化する生のあり方や、そのほかいろんな寓話があるんですが、「命は成る所有りて、形は適する所有りと為すなり。夫れ損益す可からず。」(運命は決められたもので、万物の形態は適・不適がある。人の手でどうこうしようとすべきではない。)なんていう表現にもゾクゾクいたします。

『天下是非果未可定也。雖然,無為可以定是非。至樂活身,唯無為幾存。請嘗試言之。天無為以之清,地無為以之寧,故両無為相合,萬物皆化。芒乎勿乎,而無従出乎。勿乎芒乎,而無有象乎。萬物職職,皆従無為殖。故曰「天地無為也,而無不為也」。人也,孰能得無為哉。』

→「天下の是と非の判断は、思想や身分によってさまざまで、なかなか定まらない。しかし、無為自然の法則を見出せば、答えはきっと定まるだろう。人生の最上の楽しみは、無為自然の中にこそある。試しに『無為』について聞いていただきたい。自然を眺めていると、天は無為(人の作為がない)であるからこそ清く、大地は、無為であるからこそ治まっている。だからこそ天と地の無為が相俟って、万物は皆変化する。そのようすは、あまりにもぼんやりしていて、どこから始まったのか見当もつかない。形があるようでいて形がない。万物はみな、うじゃうじゃと無為の法則にしたがって繁殖している。だから言うのだ「天は無為だ、しかしながら、何もなさないところがない」。人間のうち幾人が、この「無為」の法則を理解して、至上の楽しみを味わって身を安らかに保ちうるだろう?」

文中におもいっきり「萬物皆化」と書いてありますな。

さらに、「至楽篇」には、荘子が自分の妻を亡くしたときの話が載っています。友人である恵子(けいし)が荘子の奥さんの訃報を聞いて弔問に行くと、なんと荘子はお盆を叩いて歌を歌っていたそうです。恵子は怒って荘子に「長い間いっしょに暮らして子供を育て上げた仲だったのに、奥さんが亡くなっても哀哭しないばかりか、歌を歌うとはなにごとか!」と怒ったんです。そうすると荘子が言うんですな。

『(中略)荘子曰「不然。是其始死也,我獨何能無慨然。察其始而本無生,非徒無生也,而本無形,非徒無形也,而本無気。雑乎芒勿之間,変而有気,気変而有形,形変而有生,今又変而之死,是相與為春秋冬夏四時行也。人且偃然寝於巨室,而我激激然随而哭之,自以為不通乎命,故止也。」』(一部常用漢字に当てはめました。)

荘子はこう言った。「違うんだ恵子よ。妻が死んだ時には、私だって嘆き悲しまずにいられなかったさ。当たり前じゃないか。だけども、そのうち、こう考えるようになったんだ。人間生まれてくるときは、そもそも命なんてなかった。肉体だってなかった。もちろん、肉体を形作る「気」だってなかったんだ。もともとぼんやりしたわけの分からないものから混ざり合っていた状態から、陰陽の気が生じて肉体というのが生まれて、肉体が変じて生命あると考えたのさ。今、妻の体は再び変じて死んでいくんだよ。自然に春夏秋冬の移り変わりがあるのと同じように、妻は、天地という大きな空間に安らかに眠っているのさ。それなのに、自分がいつまでもめそめそ泣いていても、それは、天命を知らないことになりやしないかと思って、泣くのを止めたんだよ。」

これは、まさに♪わたしのぉ~お墓のぉ~まぁえでぇ~なかないで下さいぃ~♪って、ことでしょ?現代の我々が、紀元前の荘子と死生観を共有できますな。

後の「秋水篇十九」には、「吾れ天地の間に在るは、猶お小石小木の大山に在るがごとし」などともありまして、自然と共に人間があり、人間が決して特別な存在だとは考えていないことが、「荘子」の記述に表れています。

・・・以上のようにそのものズバリ!というような「進化論」ではないものの、「荘子」には、「進化論に至る素材」は豊富にあります。もちろん、具体的に証明はしていませんが。

生物の系統樹。
生物の系統樹のにある生物の名前ではなく、その幹や枝の存在の「影」くらいは理解していたようですな。まさに、「道(tao)」として。

紀元前の荘子の考えとは何なのか?
大きな範囲で「老子」と共に「老荘思想」と呼ばれるこの考え、もしくはタオイズムという考えは、「人為(あらゆる人工物、すなわち思想、社会制度、技術、美術も含む)」というのもが、人間を幸福にはしない。という思想かなと。これは「人間は自然の一部であり、自然もまた人間と同化している」という考えから始まって・・大きくいうと自然とともに生きるという思想です。儒教のように政治に積極的に関わるのではなくて、自然の法則「道(tao)」にしたがって人間の本性や自由に目覚めて生きていくというような・・もちろん、「道」を理解していくために、身体や精神の修練もあるのですが・・・社会なんてどうでもよくなって、山の中に隠居しっちゃうようなことも老荘です。いや、老荘思想というヤツは、日本人にとっては、食塩水のように実体の見えない思想であると言えるかも知れませんな。まさに、自然とそうなっちゃった、というような印象があります。

一番体現しているのが、日本では、夏目漱石かなと思います。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」というやつです。

その上で「則天去私」(天の法則に則って、私心を忘れ去る)ということですよ。

これは、仏教より老荘思想の方が説明しやすいんです。「道(tao)」の法則に則って、人為的なものを退けて自然と共にあることで意識として超越した存在になる、つまり、真の意味で自由になるくらいの思想が「則天去私」でしょ?

老荘思想は早くから仏教との混和が見られまして(仏教で言うところの「解脱」に近いので)、特に「荘子」に出てくる哲学的な議論は禅問答にも通じるし、世界観も親和性が高いので、仏教でも禅宗では副読本扱い。文体も美しく、多くの示唆に富んでいるため江戸時代の知識人に愛読されていたんですよ。芭蕉や漱石は確実に影響を受けています。今の日本人も気付かないうちに、老荘に触れています。これが、日本人が進化論をすんなり受け入れる要素の一つになったかと。

長くなるのでちょっと切ります。


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